「経済」と「生活」〜ライブハウスの未来

宮入恭平

感染拡大防止か、それとも経済再生か。優等生的な解答ならば、「どちらも重要」ということになるだろう。新型コロナウイルスと「共存」(という言葉が相応しいかどうかはさておき)していくためには、アクセルとブレーキのバランス、あるいは「ハンマー&ダンス」が大切になるというわけだ。とはいえ 、頭のなかでは理解できるものの、それを実践するのは至難の技だ。しかも、それぞれが置かれた状況で立ち位置が変わってしまうのだから、万人が納得できる解決策は見つからないだろう。一刻も早く経済を回さなければ死活問題になりかねないと考える人もいれば、未知のウイルスなのだから慎重に対処しなければと考える人もいる。そして、こうした異なる思考は分断を招き、挙句の果てはイデオロギーに回収されることになる。2020年9月11日におこなわれた「新型コロナウイルス感染症対策分科会」後の会見で、西村康稔経済再生相は9月19日からイベントの人数制限緩和することを発表した。これまでコンサートやスポーツなどの人数制限は、収容人数に関係なく収容率の50%、あるいは5000人までのどちらか少ない方が上限とされていた。それが、人数制限の緩和に伴って、収容人数が1万人を超える大規模な施設では収容人数の50%まで入場が認められるようになったのだ。実質的に、1万人以上が参加するイベントも開催が可能になるというわけだ。新たな制限は11月末までとなっており、12月以降は感染状況などを踏まえて判断することになっている。もっとも、この制限では、プロ野球やサッカーなどのスポーツ、競馬などの公営競技、ロックコンサートやライブハウスなど、大きな歓声や声援が想定されるイベントは、収容率の50%が上限となる。その一方で、歓声や声援が比較的小さいとされるクラシックコンサート、演劇、ミュージカル、歌舞伎や能楽などの伝統芸能、落語や漫才などの芸能・演芸、入学式、卒業式、成人式などの式典、映画館や博物館などは、収容人数が5,000人以下の施設では100%まで入場させられるようになる(ただし、たとえば映画館では100%の入場の場合は飲食の提供ができず、飲食の提供をともなう場合には50%の入場になるようだ)。また、収容人数が1万人以下の場合は5000人、1万人以上の場合は50%が上限となる。はたして、歓声や声援の大小による区分けが妥当なのかどうか、そもそも何を基準にしているのかには議論の余地があるものの、少なくとも政府はこうした指針によって、イベントでの人数制限緩和に踏み切ったというわけだ。そして、残念ながら、ライブハウスのステレオタイプ化は相変わらずだ。感染防止対策のガイドラインに沿った運営では、プレコロナの運営状態には遠く及ばない。政府がイベントの自粛要請を発表した2月下旬からすでに半年以上が経過しているが、ライブハウスは活路を見いだすことができないままだ。9月25日時点でのコロナウイルス禍の影響で閉店したライブハウスは、全国で34店にも及んでいる(https://www.livebu.com/covid19/close/)。10月からは「Go To キャンペーン」の一環である「Go To イベント」が控えており、第99代首相となった菅義偉首相は9月16日におこなわれた就任会見では「Go To キャンペーンなどを通じて感染対策をしっかり講じることを前提に、観光、飲食、イベント、商店街など、ダメージを受けた方々を支援していきます」と明言している。とはいえ、そこにライブハウスが含まれるかどうかは定かでない。

9月16日の就任会見では菅義偉首相が、「私が目指す社会像、それは自助・共助・公助、そして絆であります。まずは自分でやってみる。そして、家族、地域でお互いに助け合う、その上で政府がセーフティーネットでお守りをする、こうした国民から信頼される政府を目指していきたいと思います」という発言もしている。この「自助・共助・公助」の解釈をめぐっては、賛否両論の物議をかもすことになった。すでに自民党がかかげている政策(https://www.jimin.jp/policy/policy_topics/recapture/pdf/061.pdf)は、「個々人が国に支えてもらうのではなく、自立した個人が国を構成するという考え方」を基本とするものだ。その一方で、こうした考え方は、ある意味での「自己責任」を想起させる新自由主義につながるものだという指摘もあがっている。菅首相の真意は分からないが、新型コロナウイルス禍のなか「補償なき自粛」のもとで、ライブハウスが「自助」を強いられてきたのは紛れもない事実だ。そして、ライブハウスの「自助」による努力も限界に達している。こうした状況下で、ライブハウスは「共助」や「公助」による存続を模索するようになっている。ライブハウスの存続をめぐっては、有志が設立した団体による「助成金申請」と、ライブハウスの業界団体を中心とする「ガイドライン策定」という2つの流れが見てとれる。そして両者とも、これまでライブハウス文化で見過ごされてきた、政治への働きかけをおこなっている。もはや、ライブハウスも政治への関与が必要な時代になったということだろう。もっとも、カウンターカルチャーよろしく、積極的な政治への関与を好ましくないとするライブハウスが存在するのも事実だ。もちろん、ライブハウスと政治(への関与)についての是非は一概に言えることではないが、新型コロナウイルス禍によってライブハウスの存続が危ぶまれているという状況は確かなことだ。そして、何よりも存続の危機を招いている要因は、好むと好まざるとにかかわらず、ライブハウスが文化産業として成り立っているということにある。帝国データバンクによると、新型コロナウイルス関連倒産は全国で547件(9月25日現在)にのぼり、業種別の上位として顕著なのは飲食店(78件)だ。ちなみに、この数字には廃業などによる閉店は反映されないため、実際にはこの数字をはるかに上回る飲食店が影響を受けていることは必至だ。そして、ここで飲食店をとりあげたのは、ライブハウスに対する人びとの一般的な認識を改めて確認するためだ。新型コロナウイルス禍の影響で、飲食店に大きな影響が及んでいるのは紛れもない事実だ。それは、ライブハウスにも当てはまることだ。そのときに、飲食店の閉店とライブハウスの閉店がどのようにとらえられているかということだ。しばしば語られる「不要不急」の名のもとで、商売が成り立たなくなったことに同情しつつも仕方がないという声が聞こえてくる。その一方で、これまで生活の一部として存在していたものだから、助成金などで救えないものだろうかという声も聞こえてくる。飲食店にせよライブハウスにせよ、あくまでも資本主義のもとで「経済」として成立してきたのは確かなことだ。しかし、それと同時に、人びとの生活の一部となって「文化」として親しまれてきたのも事実だ。

2020年9月3日(日本時間)、アメリカの文化人類学者でアクティビストでもあるデヴィッド・グレーバーの急逝が伝えられた。享年59歳、そのわずか2ヶ月前には、世界的に話題となった“Bullshit Jobs: A Theory”の訳書『ブルシット・ジョブ—クソどうでもいい仕事の理論』(岩波書店)が出版になった矢先の訃報だった。グレーバーは「ブルシット・ジョブ」を「被雇用者本人でさえ、その存在を正当化しがたいほど、完璧に無意味で、不必要で、有害でもある有償の雇用の形態である。とはいえ、その雇用条件の一環として、本人は、そうでないと取り繕わなければならないように感じている」と定義づけている。他人から尊敬や経緯を払われながら、高収入を得ているにもかかわらず、みずからの労働を無益なものだと自覚している——富裕国のおよそ40%の労働者は「ブルシット・ジョブ」に含まれているのだ。その一方で、社会的な貢献をしながらも、労働条件が劣悪な「シット・ジョッブ」も存在している。そこには、「骨の折れる仕事」や「他人から軽んじられる仕事」、あるいは「実入りの少ない仕事」などが当てはまる。もっとも、こうした仕事に従事する人たちには、その仕事が利他的な行為だと自覚することによってもたらされる自尊心がある。新型コロナウイルス禍では、こうした「シット・ジョブ」が「エッセンシャル・ワーカー」として注目を集めるようになった。グレーバーは生前、フランスの『リベラシオン』紙(2020年5月28日)に論考を寄せている。そこでは、ポストコロナの世界における「経済」のあり方が問われているのだ。

 明らかに、コロナ下の社会生活のなかには、まっとうなひとなら誰もが再び動き出してほしいと願うはずのものがたくさんある。カフェ、ボウリング場、大学といったものだ。けれどこうしたものは、ほとんどのひとが「生活」の問題とみなすものであって、「経済」の問題ではない。
 生活=生きること=命(ライフ)。これが政治家たちの優先課題ではないことはまず間違いない。けれども、政治家たちは人びとに対し、経済のために命をリスクにさらすよう求めているのだから、経済という言葉で彼らが何を意味しているのか、理解しておくことが重要だろう。

デヴィッド・グレーバーは、古典的な「経済」の意味を「生産性」に従属する「余剰」の獲得と説明しながら、「シット・ジョブ」である「エッセンシャル・ワーカー」の大部分は古典的な意味での「生産性」をともなわないと主張する。ウイルス禍において「経済」の再始動は、何よりも「ブルシット・ジョブ」からの呼びかけというわけだ。そのうえで、この「経済」と「生活」をめぐる議論については、「『カフェ、ボウリング場、大学』の再開を『経済』の問題ではなく『生活』の問題として論じ、そのうえ『生活』の問題をただちに『命』の問題と結びつけるグレーバーの言葉づかいは、日本語世界のなかでは違和感をもって受け止められるかもしれない」という、訳者である批評家の片岡大右による注が添えられている(デヴィッド・グレーバー/片岡大右訳「コロナ後の世界と『ブルシット・エコノミー』」『以文社』http://www.ibunsha.co.jp/contents/graeber02/)。「大学はさておき、カフェを含む飲食店、ボウリング場やさらにはパチンコ店のような運動・遊技施設の休業は、わたしたちの列島ではまさしく『経済』の問題として議論され、しかも『命』を守るために犠牲を求められるこの『経済』こそが、『生活』または『暮らし』を支えるものとしてイメージされている」というわけだ。そして、「言うまでもなくここには、『補償なき自粛』の政策(あるいは無策)が経済なき生活維持を困難なものにしている日本の事情が深く関わっている」のだ。そのうえで、グレーバーは「動物的な生命維持の次元と人間的な生活の次元をわかちがたい連関」と位置づけていることを指摘する。こうした、グレーバーの「経済」と「生活」をめぐる問いかけは、すでに100年も前に日本からも投げかけられていたという事実がある。

大正から昭和にかけて日本の民衆娯楽を研究した権田保之助は『民衆娯楽論』(昭和6年=1931年)のなかで、娯楽に対する一般的な概念を説明している(権田保之助「民衆娯楽論」『権田保之助著作集第2巻』学術出版会、2010年)。娯楽には、①「客観的存在説」(人間の生活を作業、睡眠、娯楽区分けして、作業と娯楽を客観的に峻別する)、②「過剰勢力説」(日常生活の余剰が遊戯であり、人は衣食住が満たされてこそ娯楽を享受できる)、③「再創造説」(娯楽は労働によって疲労した心身を回復させ、明日の活力を養うもの)という3つの定説があり、権田はそれぞれの主張を批判的に分析している。①「客観的存在説」については、そもそも娯楽とは何かを客観的にとらえることには限界があると指摘する。音楽は人びとの娯楽になることは間違いない。では、音楽を生業としている人にとって、音楽は娯楽なのだろうか、それとも作業(労働)なのだろうか。新型コロナウイルス禍で話題にもなった、いわゆる「不要不急」の根底には、こうした娯楽に対する認識としての「客観的存在説」が大きく関係していると言えるだろう。②「過剰勢力説」では、有事の際の娯楽の有用性(重要性)を強調している。1923年(大正11年)9月1日に発生した関東大震災において、「生活の余裕があって而(しこう)して後に娯楽があるのではない。寧ろ其の反対に、娯楽があって而(しこう)して後に生活の余裕が生ずるのである」(『権田保之助著作集第2巻』p.206)と断言する。人びとが自発的に娯楽を求めていたという事実をあげながら、娯楽は日常生活の余剰として成り立つという「過剰勢力説」に反論しているのだ。そして、③「再創造説」では、資本主義社会における娯楽のあり方が問われている。そもそも、「疲労を回復して、明日の英気を養う」という考え方は、生産中心の思想のもとに成り立っているというわけだ。そして、こうした資本主義に回収された娯楽という考え方は、新自由主義、あるいは「資本主義リアリズム」が蔓延る現在にもあてはまる。権田による「生産の為めの人生ではない、『物』の為めの『生活』ではない、其の逆に人生の為の生産である、『生活』の為の『物』であるという当り前な考を、当り前に実現させ様として、心ある人はもがいている」(『権田保之助著作集第2巻』p.210)という指摘は、まさにグレーバーの「経済」と「生活」をめぐる問いかけそのものと言えるだろう。

今回の新型コロナウイルス禍では「補償なき自粛」という不条理のもとで、ライブハウスが危機的状況に陥ったことは紛れもない事実だ。そして、そんなライブハウスを存続させようとする動きが活発になっているのも事実だ。その一方で、そんなライブハウスの窮状を訴えているのは、(「経済」としての)ライブハウス自身が中心になっているのも確かなことだ。つまり、資本主義社会における「生産」する側からの主張というわけだ。そしてこのロジックは、2010年代前半に社会問題となった、クラブカルチャーの風営法問題にも当てはまる。クラブカルチャーの窮状を訴えたのは、紛れもない「経済」としてのクラブ自身だったのだ。そこで守ろうとしてものは、あくまでも生産中心の思想のもとに成り立った娯楽だったというわけだ。では、「補償なき自粛」が政治によって解消されたときに、はたしてライブハウスを「経済」(もしくは「文化産業」)ではなく「生活」(もしくは「文化」)の問題として語ることができるのだろうか。