文化に回収される芸術〜ライブハウスの真価

宮入恭平

4月20日の「新型コロナウイルスと音楽産業 JASPM緊急調査プロジェクト2020」発足から早半年が経過したものの、音楽産業はいまだ見とおしが立たないままだ。それどころか、状況はさらに悪化するという見方さえある。もちろん、新型コロナウイルス禍による打撃を受けているのは、音楽産業に限ったことではない。それでも、あえてほかの業種と比べるならば、音楽産業がかなり早い段階から影響を受けていたのは明らかで、なかでもライブエンタテインメントの分野は深刻だ。2月26日に首相会見で大規模イベントに対して自粛要請が発表された時点で、ライブエンタテインメントは機能不全に陥ってしまった。その後、感染が拡大するなか、4月7日には緊急事態宣言が発令されると、ライブエンタテインメントは自粛を余儀なくされた。5月26日に緊急事態宣言は解除されたものの、その後もイベント開催時の制約は続き、ライブエンタテインメント産業では無観客による有料ライブ配信などの模索がはじまった。そして、10ヶ月経った現時点では、9月19日から実施されているイベント開催制限の緩和にともない、政府や業界団体による感染拡大防止のガイドラインに沿って、観客数を制限しつつ有観客でのライブもおこなわれるようになっている。とはいえ、大きな打撃を受けたライブエンタテインメント産業がプレコロナの状況に回復するまでには、まだまだ時間がかかるのは必至だ。コンサートプロモーターズ協会の中西会長は、新型コロナウイルス禍におけるライブエンタテインメント産業の状況について、これまで4つのフェーズを経てきたと語っている。第1のフェーズ(大規模イベントの自粛要請が発表された2月26日〜)では「危機感」のなかでの模索があり、第2のフェーズ(緊急事態宣言は発令された4月7日〜)では「閉塞感と緊迫感」に苛まれ、第3のフェーズ(緊急事態宣言が解除された5月26日〜)ではライブ配信と言った「新たな試み」が実践され、第4のフェーズ(イベント開催制限が緩和されるようになった7月10日〜)では感染拡大防止を優先させた「手探りの再開」の段階に入ったというわけだ(「ライブビジネスはこの先どうなるのか?」https://spice.eplus.jp/articles/277169)。

もちろん、新型コロナウイルス禍による打撃に、音楽産業はただ指をくわえて見ていたわけではない。たとえば、感染が拡大しはじめた段階で、危機感を憶えた音楽産業の大手団体(⽇本⾳楽事業者協会、⽇本⾳楽制作者連盟、コンサートプロモーターズ協会)は、超党派のライブエンタテインメント議連に経済的支援の要望書を提出している。同時に、3団体による基金を設立して、困難に直面している人たちの救済に乗り出した。こうした流れは、6月に設立された「ライブエンタメ従事者支援基金」へとつながることになった。ここで留意すべきは、音楽産業のエコシステム(生態系)だ。コンサートプロモーターズ協会の中西会長は、「ミュージシャン自身はもちろんですが、実はそこに紐付いている膨大な数の雇用が失われていること自体が大変な問題である」と指摘する。「我々の業界に従事している方々はとても多いです。フリーランスでコンサートの警備や整理、搬出搬入の仕事をしている人も沢山いる。ケータリング会社やアルバイトの学生もいる。そういう人たちは、みんな全く仕事がなくなってしまった」というわけだ(前掲記事「ライブビジネスはこの先どうなるのか?」)。ウイルス禍において、コンサートプロモーターズ協会や日本音楽事業者協会、日本音楽制作社連盟と言った大手団体は、メディアなどで積極的に音楽産業の窮状を訴えている。そして、必要であれば政治へのロビー活動もおこなうようになっている。もっとも、こうした動きは、必ずしも大手音楽産業だけに見られるものではない。比較的中・小規模のライブハウスなども、ポストコロナ時代を見据えたみずからの存続のために、有志が設立した団体による「助成金申請」や、ライブハウスの業界団体を中心とする「ガイドライン策定」などを実践するようになっている。そして、ライブハウス存続をめぐって、しばしば耳にするのが「文化芸術」という言葉だ。

村上春樹の処女作『風の歌を聴け』には、「もしあなたが芸術や文学を求めているのならギリシャ人の書いたものを読めばいい。真の芸術が生み出されるためには奴隷制度が必要不可欠だからだ。古代ギリシャ人がそうであったように、奴隷が畑を耕し、食事を作り、船を漕ぎ、そしてその間に市民は地中海の太陽の下で詩作に耽り、数学に取り組む。芸術とはそういったものだ」という芸術にまつわる一節がある。ここからは、レジャー・スタディーズの文脈における、古代ギリシャのレジャー概念の本質を垣間見ることができる。古代ギリシャ語のムーシケーは詩や音楽、舞踊を含めた芸術全般の意味を持ち、理想国家を実現するために教養が重視されていた。もっとも、こうした教育を受けることができたのは、労働を強いられていた奴隷ではなく、余剰の時間を確保できる自由市民だった。詩作に耽ったり、数学に取り組んだりといった、いわゆる文芸が育まれたのは、まさに余剰の時間があったからというわけだ。古代ギリシャで問われたのは、余剰の時間の過ごし方だった。余暇は人びとが教養ある問題にたずさわり、人生の目的を追求することを可能にしたのだ。何かの目的のために余剰の時間を過ごすのではなく、余剰の時間を過ごすこと自体が目的だった。そして、詩や音楽、舞踏を含んだ文芸は、その必要性や有用性ではなく、余剰の時間を充実して過ごすためのものとしてとらえられたのだ。つまり、教養としての文芸は、余暇を充実させるために用いられたというわけだ。もちろん、古代ギリシャにおける余暇の重要性を理解するうえで、その社会背景を無視することはできない。つまり、現代社会では自明として語られる「労働/余暇」という発想を白紙に戻したうえで、そもそも古代ギリシャの自由市民は労働から解放されており、そのために教養ある問題にたずさわりながら人生の目的を追求することが可能だったという事実を考慮する必要があるのだ。

古代ギリシャにおける芸術の価値は、必ずしも現代におけるものと等価にはならないことに留意する必要があるだろう。そのうえで、芸術をどのようにとらえたらよいのだろうか。そもそも、芸術とは何か?という問いかけに、どのような答えが望ましいのだろう。『文化は人を窒息させる』を著したジャン・デュビュッフェは、アール・ブリュット(art brut)の「発明者」として知られている。アール・ブリュットとは、既存の美術や文化潮流とは無縁の文脈によってつくられた芸術作品の意味で、英語ではアウトサイダー・アート(outsider art)と呼ばれるものだ。加工されていない「生(き)の芸術」、伝統や流行、教育などに左右されることなく、みずからの内側から湧きあがる衝動のままに表現した芸術というわけだ。ちなみに、日本では福祉の文脈から、障害者による芸術という意味合いが浸透しているという事実は否めない。デュビュッフェによる「芸術はわれわれが用意した寝床に身を横たえに来たりはしない。芸術は、その名を口にしたとたん逃げ去ってしまうもので、匿名であることを好む。芸術の最良の瞬間は、その名を忘れたときである」という言葉からは、「生(き)の芸術」であるアール・ブリュットの本質が見え隠れする。そこから浮き彫りになるのは、「文化に回収される芸術」という文脈だ。そして、そんな芸術をデュビュッフェは「文化的芸術」と呼んでいる。たとえば、「芸術作品と商売とが結びつき、商人は利益のために根を釣り上げようとし、ついでこの値段が威光を生み出すことになる。商業と文化はこのうえなく緊密に結びついている。商業と文化は互いに助け合い強化しあう。(中略)商売はこのことをよく知っているがゆえに文化の神話を支持し、その権威を補強するのである」(『文化は人を窒息させる』p.36)と述べている。そして、「今日、文化という概念は、本質的に宣伝広告的であり、宣伝広告のメカニズムによく合致した度し難く単純な作品を指し示すものとなっている。要するに、作品の価値はしだいに宣伝広告の価値に移行しているのである」(p.54)と指摘している。ここからは、文化という言葉にまとわりつく欺瞞が垣間見える。そして、「文化がなくなったら芸術もなくなると言う人がいる。これは大きな誤りである。たしかに、文化がなくなったら芸術は名前を持たなくなるだろう。しかしそれは芸術という概念がなくなるのであって、芸術がなるなるわけではないのだ。芸術は名前を失って、健全な命を取り戻すのである」(p.79)と語るその言葉からは、欺瞞としての文化から解き放たれた真の芸術のあり方を描くことができるのだ。

ジャン・デュビュッフェの『文化は人を窒息させる』を訳した仏文学者の杉村昌昭は、「訳者あとがき」のなかで新自由主義のもとで「個人主義」の意味が歪曲されてきた背景を「文化」に当てはめる。そして、「文化という言葉の場合は歪曲されたというよりも、新自由主義の下でかつて以上にその支配的強度が高まったと言う方が妥当だろう。いまや、何でもかんでも『文化』という言葉を冠すれば社会的に合意が得られ、正当化されるような風潮が起きている。それは『スポーツも文化だ』というスローガンで推進されているオリンピックの開催に向けた動きに如実に現れている」と綴っている。さらに、「『パラリンピック』にかこつけて『アール・ブリュット』を持ち上げようという理不尽な珍現象まで生み出している。これこそまさに、アール・ブリュットを文垢的芸術の中に回収しようとするくわだてであ理、デュビュッフェが本書で厳しく批判していることにほかならない」と、辛辣な言葉を投げかけている。「演劇緊急支援プロジェクト」(舞台)、「#SAVE the CINEMA」(ミニシアター)と「#SaveOurSpace」(ライブハウス)が文化芸術への支援を求める「#WeNeedCulture」は、10月14日に新型コロナウイルスの感染拡大を受けて文化庁が募集した「文化芸術活動の継続支援事業」の改善を求めて要望書を提出した。関係者からは、例年の文化予算が年間1000億円前後のなか、文化庁が補正予算で560億円の継続支援用の補助金を確保して「文化芸術活動の継続支援事業」を立ち上げたことに期待したものの、現場の実情に即しておらず、支援が必要なところに届いていないとの声があがっている。「#WeNeedCulture」は発足当初から、政治への働きかけをおこなっている。もちろん、新型コロナウイルス禍における舞台やミニシアター、そしてライブハウスが置かれている状況は看過しがたいのは言うまでもない。そのうえで、みずからの活動を継続させるための実践は当然のことだ。その一方で、どうしても違和感を覚えてしまうのが、殊更に強調される「文化芸術」という言葉だ。つまり、助成の対象になっているのは、いわゆる大文字の「文化芸術」に属する分野で、そこから除外されている舞台、ミニシアターやライブハウスも含むべきだという主張が透けて見える。そして、「文化芸術」の名のもとに庇護を受けるのは効果的だろう。しかし、果たして、舞台、ミニシアターやライブハウスは大文字の「文化芸術」としてふさわしいのだろうか。あくまでも個人的な意見として、舞台、ミニシアターやライブハウスはアール・ブリュットであるべきだと考えている。欺瞞としての文化から一定の距離を保つことによって、その存在意義が発揮されると確信している。それこそが、ライブハウスの真価だと。